Interview
インタビュー

杉山康人さん(チューバ)

日本を飛び出し、音楽の都ウィーンでの活動のあと“ブラスの本場”とも言われる米国に渡り、アメリカ5大オーケストラのひとつと称されるクリーヴランド管弦楽団で15年にわたり首席チューバ奏者を務める杉山康人さん。しかし反骨心溢れた学生時代は、多くの先生からことごとくダメ出しを受けていたようで…!? 知られざるチューバ遍歴から、小澤総監督の鶴の一声でSKO入りした歴史まで、忌憚なくお話しくださいました。

杉山康人さん

初めてチューバ見て「こんなデカい楽器吹けません」って言ったら
「いや、お前やるって言うたやんけ」って先輩に詰め寄られて、それでチューバを始めました。

―まずは、チューバを始められた経緯から教えて下さい。

小学校のときに、ボーイスカウト(カブスカウト)をやっていたんです。そのスカウトにいた、2つ歳上の先輩がチューバをやっていたんですね。俺は、小学生の時にトランペット部に入っていたので、中学に入ってもブラスバンドに入りたいな、と思っていたんです。ボーイスカウトの先輩に、「チューバってどんな楽器や」って訊いたら「この中学校でいちばん高い楽器や。すごい目立つし、ソロもいっぱいあるから、お前チューバやれ」って言われて。それを聞いた俺は「あぁ、チューバってかっこいいんだな。本当はドラムやりたかったけど、チューバやります」って答えたんですよ。それで中学に入って、ブラスバンド部に行ったら、その先輩が「お前、チューバやるって言ったよな」って言いながら待ってて。俺、小学生の時なんて"マッチ棒"って言われていたくらい、体が細かったんです。そんな俺が初めてチューバ見て、「こんなデカい楽器吹けません」って言ったら、「いや、お前やるって言うたやんけ」って先輩に詰められて、それでチューバを始めました。

でも、中学2年生の時に、態度が悪くてブラスバンド部を辞めさせられまして。「杉山君と中川君が邪魔をするので、部のみんなが辞めて欲しいと言っています」と、先生に嘆願まで出されて・・・。だけど中学3年生の時に「やっぱりチューバで職を得たい。音楽大学に行きたいから、音楽高校に進みたい」と思って。先生に相談したら「ソルフェージュもピアノもやってないでしょ。今からは無理やから、まずは普通の高校に入って、それから音楽大学を目指せば」と。その時はチューバを全然吹いてなかったのに、それでも音楽高校に行きたいって思ってたんだよね。「杉山君は体も細いから、せめてユーフォニウムにして受験したら?」とも言われたけど「いや、俺はチューバをやる」って、頑なだった。
結局、普通の高校に進んで、そこで吹奏楽部に入ったんですよ。兵庫県三木市の高校で、割と吹奏楽が強いエリアの子たちが集まってくる高校で。部にはすでにチューバが2人いて、俺みたいな田舎者が入っていくスペースは無かった。先生に言われたのは、「チューバは無理やろな。いま空いているのは打楽器やから、とにかく打楽器やれ」って言われて。念願のドラムをやりましたね。チューバのポジションをもらえたのは、先輩方が卒業した2年生からでした。

実は1年生の時に「チューバの先生を紹介して欲しい」って、高校の先生に頼んだんですよ。「お前はたぶん、チューバは無理やから」って言われても、「俺はチューバでプロになりたい」って答えて、引き下がらなかったな。それで当時まだ大学を卒業したばかりの、武貞茂夫先生を紹介してもらいました。僕が最初の生徒でしたね。翌年、武貞先生は京都市交響楽団に入られました。チューバを続けたのはこういう経緯です。

―鮮烈なエピソードですね。何度も「やめたほうがいい」と言われても、チューバを続けたのはなぜですか?

反骨心かな。ダメって言われると、なんかやりたくなる。でも、高校のときは辛かったね。全然うまくならないし、どういう風に吹いたらうまくなるのかわからなかった。音って正確に吹かなきゃいけないじゃないですか。音に合った運指があって、やっとその音が出ますよね。例えば、B♭の音にナチュラル(♮)が付いていたとしても、開放(B♭の運指)で吹いていたんです。音が合ってるのかもわかんない。よくそんなので、音楽大学目指したなって思うけどね。

―チューバに対して「これだ!」と思うものがあった?

いや、なかったなあ。演奏は好きだったけど、別にチューバがめちゃくちゃ好きだったわけではないです。うまかったわけでもないけど、せっかく始めたから、これしかないかなって。打楽器でプロになろうっていう気持ちもなかったし。

―武貞先生からレッスンを受けはじめ、念願の音楽大学へ?

高校1年生から、近所に住んでいた吹奏楽の先生にソルフェージュを習っていたんだけど、とにかくできない。音が取れない。2年間やっても取れないから、武貞先生に相談して別の先生を紹介してもらいました。その時に習ったのが京都市交響楽団の副首席(3番ホルン)だった方の奥様。それでも全然取れなくて「大丈夫かしら」とか言われてたんやけど、大学受験前になったら、おもしろいように取れるようになって。受験する頃は、音が全部聴き取れるようになってた。それでも、近所の吹奏楽の先生には「杉山くんは、普通の音楽大学は無理やから、短大受けたらどうや」と言われました。でも、俺が行きたかったのは大阪音楽大学。高校3年の時に、大阪フィルハーモニー交響楽団のチューバ奏者の先生を武貞先生が紹介してくれて、レッスンを受けたんです。その方にも「ちょっと難しいな」と言われた。ちょうどその時、相愛大学が出来たばかりで、そこに推薦で入ることが出来ました。

だけど、大学ではオーケストラは一切やってないですね。3年生にひとり、2年生にもひとりチューバ奏者の先輩がいて。4年間の在学中、オーケストラの中で吹けたことは一度もありませんでした。4年生のときに「コンチェルトの夕べ」っていう演奏会のオーディションがあって、通ったんです。それで、ヴォーン・ウィリアムズのチューバ協奏曲を吹きました。大学で吹いたのは、このコンチェルトだけ。オケでチューバを吹く機会がなかった。ブラス(吹奏楽)はやってましたけどね。

大学を卒業した後は、自分でイベント会社を立ち上げました。バンドを雇って、いろんなイベントに営業して、演奏してもらっていました。大阪の御堂筋パレードをサポートしたり、奈良県にある、とある市の1年間のイベント全部やらせてもらったり。22歳から27歳の時まで、チューバを吹きながらイベント会社で働いていました。

転機となったのは27歳の頃です。大阪シンフォニカー(現大阪交響楽団)に入ったけど、在籍したのは10カ月だけ。辞めて、東京に出てフリーランスで活動して、それで新日本フィルハーモニー交響楽団のオーディションを受けたんです。僕と、もう一人のチューバ奏者が最後まで残りました。審査していたみなさんは、もう一人の奏者を推したそうなんです。経験もある方だったしね。だけどそこで、小澤さんが俺のことを「あいつ面白いから、あいつにしよう」って言ってくれて、それで俺が入ったんです。これが1998年のこと。本来なら夏から新日フィルの仕事をしなきゃいけなかったんだけど、小澤さんは「(SKOのチューバを)あいつにしよう」と言って下さった。新日フィルに入ってから最初に仕事をしたのは、SKOなんです。

俺の人生の中で、演奏する上で一番助けになったのは、ハンス・シュトレッカーやな。

―珍しい経緯でSKOへの出演が決まりましたが、1998年に初めて演奏されたご感想は?

最初に演奏したのが、プーランクの『カルメル会修道女の対話』。最初のリハーサルが始まる前のお昼に、トロンボーンの呉信一さんが中華そばともり蕎麦の店(みやまそば[閉店])に連れて行ってくれたんです。でも緊張で、ソバですら喉を通らなかったのは、今でも忘れないね。良いことってあんまり覚えてないけど、悪いことは忘れないもんだね。
演奏した時のことは、全く覚えてない。オーケストラで演奏すること自体がそんなに経験が無かったので、オケの中でどういうふうに演奏するのかが、全くわからなかった。自分が果たしてうまいのか下手なのか、合ってるのか間違ってるのか、全くわからない。自分の立ち位置がわからなくてね。これがわかったのは、最近かもね。

―自信がついてきた?

そうそう、この歳にしてね。

―「自分がやってることは大丈夫なんだ」と、気づいた瞬間はあったんですか?

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(*1)で、サイモン・ラトルの指揮でブルックナー:交響曲第4番を吹いた時に、「あ、こういう風でいいんや」って思った。俺の感覚としては「もっと吹かなきゃいけない!」って思ってたんだけど、バス・トロンボーンの人に「そんな吹かなくていいよ、ブルックナー4番は」って言われて。ウィーン・フィルは小さなオケだから、そんなに大きな音で吹かなくても良いんです。あとはアメリカに行ってから、自分の立ち位置がわかるようになってきた。

長い間、自分の中に確信がなかったのよね。でも、俺の人生の中で、演奏する上で一番助けになったのは、ハンスやな。ヨハン・シュトレッカー(*2)。ウィーン・フィルの入団テストを受けるときに、どういう風に吹けばいいかっていうのを教えてもらったの。その時「ウィーンのスタイルは、こういう風に吹くんや」っていうのを、確信を得た感じがした。だから入団テスト受けたときも、その確信があるから負ける気がしないわけ。アメリカのオケを受けたときも、そう感じてたね。それこそウィーンで吹くことも夢のまた夢だったけど、アメリカでブラス奏者としてプリンシパルになるなんて、俺らの子どもの頃から考えたら想像だにできなかった。だって、アメリカといえばブラスでしょう。だから、アメリカに行って、このポジションを取ったことは、自分のブラス奏者として本当に価値があります。

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杉山さんとヨハン・シュトレッカーさん。2003年サイトウ・キネン・フェスティバル松本での1枚。

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2002年SKF オーケストラ コンサート Bプログラム、R.シュトラウス:交響曲「ドン・キホーテ」Op.35。小澤征爾総監督の指揮で、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチさんをチェロ独奏に迎えての演奏だった。後列右手が杉山さん。

舞台脇の、カーテンの後ろで吹いていたの。

―記憶に強く残っているフェスティバルでの演奏会はありますか?

俺、良いことってあんまり覚えてないの。例えばシェーンベルクの『グレの歌』(2005年)。あの時なんて、俺、ステージ乗ってないんだよ。舞台脇のカーテン(袖幕)の後ろで吹いていたの。オケの人数が多すぎて、ステージに入りきらなかったから。自分から指揮者は見えるけど、カーテンの外で吹いていたから、客席からはほとんど見えない。たぶん乗り切らなかったのは、俺だけだったと思う。そういうの、覚えてるなあ。
あとね、一番覚えてるのは、ベルリオーズの『ファウストの劫罰』。あの時に、ジュゼッペ・サバティーニさんが歌ってたの。ホセ・ヴァン・ダムさんと一緒に出演されて、素晴らしかった。本当に素晴らしかったんだけど、オケとうまくいかないところを、小澤さんは何回もやるわけ。サバティーニさんが悪いわけじゃないのよ。でも、何回も歌わされたサバティーニさんが、めちゃくちゃ機嫌悪くなってたのは覚えてる(笑)。昔から、SKOは諦めない。うまくいかないところは何回もやる。

でもね、俺は小澤さんに「お前、もうちょっとこういう風に吹かなきゃだめだ」って言われたことは、一度もないの。自由にさせてもらってると思う。自分の良さと悪さっていうのはわからないけど、23歳の頃に、朝比奈隆先生指揮の大フィルで、ブルックナーの7番を吹いたときに「あんなに美しい音のチューバ吹きはいない」って言われたの。俺自身には、全くその感覚はない。ただ吹いてるだけ。でも、もしかしたら小澤さんは俺の音を聴いて「あ、こいつ良い音、美しい音してるな。ええ音やな」って思ったから、なにも言わなかったのかもしれん。そこは、自分にとっては良かったなと思うよ。

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2005年SKF シェーンベルク:グレの歌。右側後列に並ぶトロンボーンの上手側(右側)に杉山さんがいる・・・はず。大編成のオーケストラに、独唱5名、3組の男性4部合唱、100人を超す混成8部合唱も乗った、壮大なステージだった。

―小澤さんと演奏会以外での親交は?

小澤さんが何十年か振りにザルツブルク音楽祭に出演されたとき、好きな中華料理屋があるからって連れて行ってくれたの。いきなり電話がかかってきて「いま何してる? 今から××ってところで、村上(寿昭)くんと飯食うから、あんたも来ない?」て言われて、中華を食べたわけよ。翌日の演奏会で、ドヴォルザークの「新世界」を小澤さんの指揮で演奏したんだけど、曲が始まった途端にお腹痛くなって。第2楽章が終わったとき、隣に座っていたホルン奏者から、冗談だけど「ヤス、もう出ていいよ」って言われるほど、痛くなってた。演奏会が終わって、楽器を袖において、トイレに直行した。お腹痛くなったのは、3人の中で俺だけ。小澤さんって、やっぱり強いなって思ったね(笑)。

―ありがとうございました。

*1:杉山さんは2003年、東洋人で初めてウィーン国立歌劇場管弦楽団のオーディションに合格。
*2:SKOにも長く出演して下さっているウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のバス・トロンボーン奏者。

インタビュー収録:2020年8月
聞き手:OMF広報 関歩美