Interview
インタビュー

池松宏さん(コントラバス)

オーケストラの縁の下の力持ち、コントラバス。約20年にわたりSKOのコントラバス・セクションで力演してくださっている池松宏さんですが、学生時代の夢は指揮者で「コンバスなんてもってのほか」だったとか。クールなポーカーフェイスの下には、「自分ほど音楽が好きな人はいない」というパッションが沸々と湧いていました。衝撃を受けた伝説的コンバス奏者ライナー・ツェペリッツさんや、大好きな釣りのお話も!

池松宏さん

当時は、世界中に僕より音楽が好きな人はいないと思っていたくらいです。

―池松さん、ブラジルのお生まれなんですね! どういう経緯で?

父親の仕事の関係です。兄弟が3人いるんですが全員ブラジルで生まれて、僕が6歳くらいのときに帰国しました。帰国したころは日本語もまともにしゃべれなかったんですよ。だけど、小学3年生の頃には完璧に日本語をしゃべれるようになった代わりに、(ブラジルの共通語である)ポルトガル語は全部忘れました。その後、中学生の時にまた家族でブラジルに戻ったのですが、残念ながらポルトガル語は思い出せなかった...。たった6、7年ですべて忘れてしまったんですね。中学は日本人学校だったので、朝から晩まで日本語。英語の方が出来る感じでした。中学3年の時に、受験のために再度帰国しました。

―19歳でコントラバス(以下コンバス)を始められたそうですが、きっかけは?

日本で高校を卒業してからコンバスを始めました。
クラシック音楽を好きになったのは中学生くらいの時から。普通の都立高校に入って管弦楽部に入部したんですが、ヴァイオリンをやりたいと言ったら満席だからコンバスかクラリネットなら出来ると言われて。コンバスなんか冗談じゃないと思ってクラリネットを選んだんです。ちなみに、弱小管弦楽部で部員は全部で10数名。圧倒的に数が足りなくて、コンバスは僕が在籍した3年間、一人もいなかった。クラリネットも、先輩も先生もいなかったです。2年生の時にチェロがいなくなったのでやれと言われ、完全なる独学でチェロをやりました。最終学年の3年では、指揮者がいないから指揮をやれと。そんな環境でしたが、卒業するころには音楽がすっごく好きになっていて、音楽家になりたいと思っていたんです。だけど、クラリネットもチェロも、とてもプロになれるようなレベルではない。ましてや譜面もろくに読めない。じゃあ指揮だったら出来るだろうという素人考えで、まずは指揮者を目指しました。高校3年生の終り頃ですね。フルトヴェングラーより俺のほうが上手いって、本当に思ってました(笑)。そこで、電話帳で小澤征爾さんの番号を調べて電話をしよう、と思い立ちました。
ところが、電話帳を調べても「小澤征爾」の番号は見つからない。たまたまその頃見たテレビ番組に小澤さんのお母様が出ていらっしゃって、「なるほどさくらさんと言うのか」と思っていたら「小澤さくら」という名前を電話帳で見つけました。電話をして「あのぅ、小澤征爾さんのお母さまですか?」と聞いたら「違います」という返事。「まぁそうおっしゃらず。指揮を習いたいんですけど」と言っても「違います」というお返事だったので、どうもこれは本当に違うと思って、しょうがないから成城に行ったんです。成城にご自宅があるのはテレビで知っていたので。今では絶対に教えてくれませんが、交番に行って「小澤征爾さんのお宅を教えてください」と頼んだら教えてくれたんですよね。呼び鈴を鳴らしたんですが、ご家族皆さんボストンにいらっしゃる時期だったからもちろんお留守。しょうがないのでもう一度電話帳を見ていたら、あの山本直純さん(*1)が実名で載っていました。電話したらマネージャーさんが出て「今忙しいから週明けに電話してください」と言われたんですが、なぜか週末の間に急に怖気づいてしまって、電話は出来なかったです。

そんなことをしているうちに、中学時代の音楽の先生が堤俊作さんというSKOで演奏されていた方を紹介してあげるとおっしゃって下さいました。堤さんのところに行って「指揮者になれますか?」と訊いたら「そんなの分かるか」と。ただ、僕に素養が何もないのがわかっていたので、とりあえずコントラバスをやれとおっしゃって下さったんです。堤先生もコンバス出身ですが、桐朋にはそういう伝統が昔からあって、大友直人さんも、北原幸男さんもコンバスを経て指揮者になられました。そうやって、嫌々ながら始めたのがきっかけです。

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2007年SKFオーケストラ コンサートAプログラム リハーサルでの1枚。

―弱小管弦楽部で教えてくれる方が誰もいない中でも、楽器をやっていて楽しいと思ったんですね。

ええ、それはそれは楽しくて。本当に音楽のことばかりを考えていました。当時は、世界中に僕より音楽が好きな人はいないと思っていたくらいです。これだけ好きだったら絶対音楽家になれると思っていました。

―それは素敵な動機ですね!

音楽大学を受験すると決めてソルフェージュを習い始めましたが、全く出来なくて毎回怒鳴られていました。「なんで音楽なんかやるんだ」と言われて「好きでしょうがないんです」と答えたら「好きで食っていける世界じゃない」と怒られました。ですが今、音楽家になってみたら、好きじゃないとやってられない職業だと思います(笑)

―大学にはコンバスで入ったんですね。

最初は指揮者になる夢があったので、嫌々ながらコンバスをやっていました。最初の2、3年は本っ当に練習しなかった。堤先生はお忙しい方だったので2、3か月に1度しかレッスンがない。そのレッスンの1週間前からちょっと触りはじめて、という具合。要するに、数ヶ月まったく楽器を触らないような生活をしていました。
一度、それがバレたことがあります。レッスンの間が数カ月空くので、その間に何十ページ練習してこいと指示されるわけです。僕はいつも最後のページしかさらわないで、間のページはさも練習したように意味もなくクシャクシャっとやって、落書きしたりしていました。レッスンの日には「ここまでやりましたけど時間がないので最後からみてください」と先生にお願いするので、1冊の本を10ページもやってませんでしたね。平均して1週間に30分ぐらいしか弾いてないから下手でしたし。学校に行っても雀荘しか行かないような感じ。
ところがある日、桐朋学園でのレッスンから帰る時に間違えて先輩の弓ケースを持って帰っちゃったんです。いつものごとく2か月間まったくさらわないで、もうそろそろレッスンがあるからと弓ケースを開けたら、入ってなかったんです、弓が(笑)! 2か月間、弓が無いことに気が付いていないというのがバレバレで、さすがに先生にも先輩にもすっごい怒鳴られました(笑)

―コンバスに真剣に向き合おうと決めたのはいつ?

突然好きになったんです。2年生の後期頃だと思うんですが、桐朋の図書館で、西田直文さんいうコンバスの方の卒業演奏のテープを聴いたんです。西田さんはSKOにも昔よく出ていらっしゃった方ですね。曲はクーセヴィツキーのコントラバス協奏曲。演奏も素晴らしかったし、とにかく良い曲で、コンバスにもこんな曲があるんだと発見し、この曲をこういう演奏でやってみたいと思ったんです。同じころにオーケストラでの演奏が始まり、オケで弾く楽しみを見つけました。家で一人で弾いていても何にも面白くないんですけど、それがオーケストラとだとすごい楽しい。先生からクーセヴィツキーの協奏曲を演奏していいと言われてから別人のように練習をはじめました。年齢にして、ハタチか21歳ぐらいですね。

普通の人はそこまでひどくないので突き詰めないと思うんですけど、出来なかった分、ものすごく追い込まれました。

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2001年 SKOのアメリカツアーでの1枚。写真左奥に、ツェペリッツさんに並んで池松さん(左手)

―その後25歳でNHK交響楽団に入られます。本気で始めてからわずか5年です。

未だに不思議なんです。とてもプロのレベルじゃなかったから、なぜN響に入れていただけたのか、本当によくわからない。今の僕が当時の僕を見たら、絶対入れないです(笑)。オケの中で弾くことに対して一生懸命さはありました。とにかく大きい音を出してはいたけれど、何にも分かってなかったですね。ピッチカート一つにしても、みんなと一緒にはじけなかったですし。

―プロのオケ集団で演奏された感想は?

「指揮者には絶対なるまい」と思いました。
入団した頃の夢は、早く定年になって、N響を"買って"、マーラーの交響曲第9番を振りたいと思っていました。だけど入ってしばらくして、圧倒的な指揮者がいるということに気づき、指揮者の夢は完全に潰えました。

―他に印象的だったことは?

全然弾けなくて、とにかく怖かったです。テクニック的に弾けないというのではなく、まわりの奏者と一緒に弾けないんです。だから怖くて怖くてしょうがない。休符の間、コンバスの人は楽器の肩に手を置いているでしょう。でも僕は手が震えちゃって音を立ててしまうので下に降ろしていました。ピッチカートひとつすら怖くてタイミングがズレていたので、前席の方に「怖かったら弾かなくていいよ」と親切で言ってもらったんだけど、かなり強面の男性だったので「弾くなという意味か」と解釈してしまい、本番1音も弾かずにずっと弾き真似していたのを今でもよく覚えています。本当に悲しくて、もう何をしに行っていたんだろうと。
そのおかげとは言いませんが、毎回毎回勉強して、色々考えました。1つのピッチカートをはじくのに何を見て、どう感じて、どう力を入れて、もしくは抜いて、どう息をして...ということを。結局それが良かったですね。普通の人はそこまでひどくないので突き詰めないと思うんですけど、出来なかった分、ものすごく追い込まれました。

―25歳の時にN響に入られて、2006年に退団。その後ニュージーランド交響楽団に入られました。転機の理由は?

もともと学生時代から、スイスかカナダかニュージーランドのオケに入りたかったんです。共通点がありますよね。

―素敵な山と渓流がありますね(笑)

そうそう(笑)。常に海外のオケで演奏したいという夢があったのですが、N響での仕事もあった。それなりに充実した生活をしていましたがアッと気付いたら40歳手前。人生残り半分。子どももまだ小さかったし、今ここで動かないと一生海外オケには行けないと思ったんです。ちょうどその時、ニュージーランド交響楽団(以下NZSO)の指揮者(音楽監督)がN響に来たんです。N響の理事の方が僕の釣り友達(*池松さんは大の釣り好き)なんですが、「ウチのコンバスの首席がニュージーランドに行きたいと言ってる」と軽い気持ちでその指揮者に言ったところ、楽屋でご挨拶が出来たんです。色々話をしている間に「来年大阪でNZSOの公演をやるから聴きにきたら」と言われて、わざわざ泊りがけで行きました。39歳ぐらいの時でしたね。聴いたら、すごく上手でびっくりした。中学生の時にラジオで聴いたNZSOの演奏より恐ろしく上手くなってて「うゎ、すっごい!」と思って。その公演後、楽員向けのパーティにノコノコと一人で行って、コンバスの人を集めてもらって「僕の夢はニュージーランドに住むことです」と言いながら握手して回ったんです。みんなすごい喜んでくれたんですけど、空いてるポストが無いと言われて、それならしょうがないと思って帰りました。
ところが、それから半年後にたまたま首席の人が辞めるからオーディションをやるので受けないかとお声をかけていただき、めでたく受かって移住しました。夢が叶ったんです。

やっぱり小澤さんの音なんですけど、日本人じゃないと出せないような、ある意味"ザ・日本"という音がすると思います。

―SKO初出演は2000年の年末公演(*2)でした。思い出を教えて下さい。

何と言っても、ライナー・ツェペリッツさん(以下ツェパさん)の隣で弾いたことがカルチャーショックでした。彼はベルリン・フィルハーモニー管弦楽団コンバス・セクションの首席で弾いていた人なんですが、想像していたのとは全くタイプが違うことにびっくりしました。一番よく覚えているのは、マーラーの交響曲第9番で、ヴァイオリンが入った後にコンバスがボンっとピッチカートをはじくところ。普通、ターーーリーーーボン、と入るところを、チェペさんはターーーリーーー・ボワン、と、1拍くらい違う感じで入っていたんです。「何を考えてこんなに遅くはじくんだろう?」と思っていたんですが、それが練習するうちに、だんだん周りの音と合ってきたんです。チェパさんは何も変わってない。どうやら、練習をするうちにこの曲特有の"溜まり"(遅くなる)がオケも分かってきて、結果的にチェパさんと合ったんです。「そうか、この人は周りを聴いていないんだ!」というのがよく分かりました。なんと言うか、自分の頭の中の音楽でやっているんだと思います。我々は聴いて合わせるけど、ツェパさんは自分の理想の音楽を頭の中でかけて弾いていたんじゃないでしょうか。
他にもアンサンブルが込み合って難しいところがあって、チェパさんに「何の音を聴いているの?」と訊いたら、そもそもその存在すら知らない感じで(笑)。あぁ、当時のベルリン・フィルはこうなんだと思いましたね。みんなで聴きあって合わせるのではなく、それぞれが自分の理想で演奏する。だからぐちゃぐちゃになるときはなるけど、その代わり、それが合ったとき、合わせて一緒になったのではなく、合った時は、ものすごいものが生まれるんですよ。「なるほど!」と思う反面「僕には絶対できない」と思いました。聴こえてしまうものは無視できないです。僕は、今でもチェパさんは恐竜だと思っています。本能だけでやっている、偉大な恐竜です。
マーラーの9番は一番というくらい大好きな曲だったので、その曲を小澤さんの指揮で、チェペリッツさんの隣で弾かせていただいたのはとても幸せでした。それこそ、定年になったらこの曲を指揮したいと思っていたくらいの楽曲でしたから。

―チェペリッツさんの演奏に対して、小澤さんは何か指示したりしたのですか?

もちろんコンバスに何かおっしゃることはありますけど、それよりも覚えてるのは、チェパさんが小澤さんのところに行って「それは早すぎる。我が音楽人生でそんなに早く弾いたことはない」と言っていたのにはびっくりしました(笑)。小澤さんはツェパさんをとても高く評価されていましたよね。

ツェペリッツさんの隣で何回も弾かせていただいたのは、僕にとってものすごく良い経験です。普通だったらこんな経験できないですよ。とにかくエネルギッシュな方で、リハーサルの時からすごかった。リハなのに、自分が若い頃に映像で見たツェパさんの姿と一緒だったんです。リハから全開というのが彼のスタイルというか、普通なんでしょうね。僕より30歳ぐらい上のはずだけど、「疲れない?」と訊いたら「全然大丈夫。僕は若い時から50年間くらいベルリン・フィルでケンカしてたから」と言ってました(笑)

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2004年SKF オーケストラ コンサートのゲネプロでの写真。池松さんとツェペリッツさんが、スタッフと一緒にコントラバスの中を覗いています。

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え、ハンカチが詰まっていたのでしょうか...?

―小澤さんの指揮で演奏する際に感じることや、印象に残っていることは?

小澤さんの指揮での演奏は桐朋の学生時代から経験していました。小澤さんって、学校の先生が指揮している教室に突然いらっしゃるんです。そうすると空気がピリーッとなる。あれは本当にすごいなと思います。決して人間的に怖い方ではないですが、小澤さんが指揮台に立つだけでピーンと空気が張り詰める。あれは何なんでしょうかねぇ。
カリスマ性というのか、人心掌握術みたいなのが本当にすごいなと思います。桐朋に来た時もね、(コンバスとは正反対の方向を向きながら)「おいコンバス!」と言って、指示したい人に向けてピーンっと指を向けるんです。僕なんか下世話だから、(見ないでも指を指す仕草を)家で練習してるのかな?なんて思ってました。学生時代からいつも思っていますが、小澤さんが立つと変わりますよね。
お若い時はものすごく見やすい指揮でしたが、年を重ねられてからは、多分わざと振らないようにされてるんじゃないかな、と思います。振りすぎると、オーケストラプレイヤーって指揮に頼りすぎて(周りの音を)聴かなくなっちゃうんです。わざとあいまいに振ることによって耳を使うような指揮を心掛けていらっしゃるのかなと思います。

―SKOをどんなオーケストラだと感じていらっしゃいますか?

毎年久しぶりに弾くと、とにかく弦楽器の音がすごいな、と思います。SKOでしか聴かない音で、一発でサイトウ・キネンの音というのがわかります。弦楽器全体がうねるというか、うなる。やっぱり小澤さんの音なんですけど、日本人じゃないと出せないような、ある意味"ザ・日本"という音がすると思います。

―松本は自然豊かな土地で、池松さんも大好きな釣りを楽しんでいらっしゃいますね。最後に釣りのエピソードを教えてください。

僕はライナー・ゼーガスさん(SKOのティンパニ奏者)が大好きなんですが、あの方は蝶と蛾の採集が趣味なんです。松本に来ると毎回、トランクに蝶や蛾を集めて持って帰るらしいんです。もちろん持ち出しがダメな種類は除いて。その彼といつも情報交換をします。なぜなら、彼が蝶を採りに行くところはだいたい川の側だから「水の量はどうだった」とか「あそこの川には魚がいたよ」とか、僕に良い川の情報を教えてくれるんですよ。
ヤマメ、イワナ、ニジマスなんかを狙いに行きます。川魚は警戒心がすごく強いので、誰かが先に釣りをしていたらそこではもう釣れないんですよね。なので結構山奥まで行きますよ。

―ありがとうございました。

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2008年SKFでのリハーサル風景。こちらは池松さんが大好きなティンパニ奏者ライナー・ゼーガスさん。お召しになっているTシャツはもちろん蝶のデザイン!

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2007年SKF コントラバス・セクションの練習風景。

*1:日本を代表する作曲家であり指揮者。小澤総監督とも旧知の中で、共に齋藤秀雄先生に教わった。

*2:2000年~2001年の暮れにかけて行われた特別公演。
「サイトウ・キネン・フェスティバル松本 冬の特別公演」
2000年12月31日(日)長野県松本文化会館 
2001年1月2日(火)&3日(水)&4日(木)東京文化会館
指揮:小澤征爾
マーラー:交響曲第9番ニ長調

インタビュー収録:2021年6月
聞き手:関歩美(OMF広報)